2008-02-29 20:37 《海福寿山「一隅を照らす」》 「一隅を照らす」とは伝教大師最澄の ...
《海福寿山「一隅を照らす」》
「一隅を照らす」とは伝教大師最澄の『山家学生式』に記されている言葉である。一隅とは自らの身の回りのことであり、その根底にあるのは「道心」であると伝教大師は記している。「武術」で八卦掌の特集がなされているが、今回、徐紀氏も羅漢拳に触れざる得なかったようである。何静寒先生が八卦拳の中における羅漢拳のことを発表されたためであろう。徐紀氏の「微妙な」羅漢拳評価も面白い。実は今回の号には以下のような原稿を私は送っていたのであるが、何故か掲載されることはなかった。八卦拳文献の解題ともなっているので参考までに再録しておこう。世の中にはさまざまな「力」が存在している。そうしたものに関係なく真実を求めていく道が一隅を照らすということである。
○八卦拳修業記
今夏、久しぶりに台湾に行って来た。主たる目的は八卦拳の何静寒老師のご指導を仰ぐことと、武術文献の収集であった。どちらにおいでも望外の成果を得ることが出来たのは幸運以外の何者でもなかったと言えるであろう。ここでは特に八卦拳に関する文献を紹介しておこう。先ずは王樹金の『八卦連環掌』である。この本は、かなり以前に出版されたもので日本では王氏に師事した人の間で秘蔵されて来た珍本とされている。コピー版であるが逸文出版で入手できる。他に同社からは杜召棠の『游身連環八卦掌』が出されている。
これは高義盛派の八卦掌を紹介したもので歌訣も多く収められている。趙福林の『八卦太極』(五洲出版社)は傅淑雲が中央国術館で呉峻山から習ったもので、太極拳に八卦の実戦手法が取り入れられている。最後になったが、何静寒老師からは特に「伸筋抜骨」の密伝をこと細かくご教授していただけた。八卦拳の一段の奥義を垣間見た思いを強く持ったものである。また現在、出版されている『八卦拳基礎』の続編(八卦拳八卦掌)も今年中には出るそうである。
《『国術名人録』を読む(5)孔瞎子・鎮江》
孔瞎子は鎮江の人で、生まれてすぐに両目の光を失ってしまった。父親は小規模な商売を行っており、母親は針仕事をして家計を助けていた。貧しいながらも、楽しい家庭であった。
ある日、父親は市場に行き商売をしていたところ、客の船大工の王鵞頭(鵞頭とは「瘤」の意)と「まける」「まけない」の争いとなった。王は元より争いごとを好む性格であり、父親もまけることを拒んで強気で対したので、ついには喧嘩になってしまった。孔の父親は年輩でもあり、ひどく頭を打たれてしまったので、取り乱した状態で家に帰り、妻に向かって言った。
「妻や。私はもうだめなようだ。王鵞頭に頭をひどく殴られてしまった。頭がくらくらしてどうしようもない。おそらくは死んでしまうであろう。子供は年も幼く、目も見えない。誰が私の仇を討ってくれるのであろうか」
言い終わると、再び意識が混濁してしまい、翌朝には亡くなってしまった。時に孔は十歳であったが、父の死をひどく悲しみ、きっとその仇を討とうと心に誓った。そして母親に仇は誰かを問うた。
母親は、
「おまえは年もまだ幼い。大きくなったらその者の名前を言いましょう」
と答えた。
孔は黙ったまま深く仇を雪ごうと心に決めたが、そのためには武術に優れていなければだめである。そこで日夜「父の仇を討つために武術を教えてもらわなければ」と思っていたが、ある日、警備の仕事をしている呉克が、家の前を通りかかった。母親はそれを慇懃にもてなし、武術のことを問うた。孔はこれを聞いて大変に喜び、勢い立って呉に向かって言った。
「先生!私でも武術を練習できますでしょうか」
呉はへんなことを言う奴だ、と思って聞いていたが、ふりかえって見ると庭に石がころがっている。元より孔に深い事情のあるとは思いも依らず、なんのきなしに孔に向かって冗談半分で、
「もし武術を学びたいという志があるのであれば、その功が成らないということはない。では君に一つの方法を授けよう。庭に石がころがっているね。500斤もあるだろうか。朝晩、あの石を数十回抱え挙げれば、三年の後には、なんの苦労もなくて楽々と石を抱えられるようになるであろう。これは少林寺嫡伝の七十二芸のひとつで玉帯禅功というもので、一般には抱千斤といわれているものだ」
と語った。孔は子供であったが、大変な人と出会ったと思い、その教えを深く心に刻み、何度もお礼を言った。呉が去った後、孔は教えられた方法を実行しようとしたのであるが、初めは重くてどうしようもなく、少しも石を動かすことができなかった。こうしたことを続けている内に、次第に石を軽く感じるようになり、同時に力も付いてきた。こうして三年、朝晩欠かさず練習を重ねたので、片手で石を持ち上げて庭の中を何度も歩き回れる迄になった。「一念岩をも通す」ということである。
ある日、孔は港に行って、王鵞頭の消息を尋ねてみたが、王は船に乗ったまま未だ帰って来ないという。何日か待っても帰って来ないので「もしや死んでしまったのではないか」と思ったりもしたが、死んではいないと教えてくれる人がいたので、孔は毎日、王が帰って来ないかと思って待ち続けること二か月。王がやっと帰って来たとの驚くべき知らせが入った。孔はそれを聞いてすぐに王を捜し、それを呼び止めた。
「なんだ」
「あなたが王鵞頭ですか。私は目が見えません。あなたが本当に王鵞頭さんかどうかちょと撫でてみて好いですか。お金を返したいという人が居るんです」
王はこれを自由にさせたので、孔はすぐに王の前に来て、その瘤を撫でる。
「これだよ」
と王。
「ほんとだ」
言葉も終わらない内に、孔は玉帯功を以って王の腰を締め上げた。「これはまずい」と思った王はどうにかして逃げようとするが、どうにもならない。その両手は万力で締め上げているよう。動くこともできない。そのままで孔は王の罪あるところを語った。語り終わったところで、更に一段の力を込める。王は骨を折られ、血を流して亡くなった。
盲目の子供が、捲まず撓まず練習を重ねて、ついには絶技を身に付け、父の仇を打ったのである。これを見ても、中華武術の各種の硬、柔の功夫は、何ら神秘的なものではなく、功が成らないということもないことが分かるであろう。要は朝鍛夕練を欠かさないことである。
〈両儀老人、曰く〉
○こうした方法は現在の人に最も理解されにくい。どうしても練習メニューやバランスにこだわってしまう。おそらくはこのような事を教えられても、本気で3年も練習する人は居ないであろう。
○文面からすれば呉克は本当に玉帯禅功を身に付けていたのではないようである。警備の仕事をしているから何処かで聞いていたのかもしれない。孔瞎子の真心が不十分な教えを「真伝」にしてしまったのである。もし、修業者に真の心が無かったならば、「真伝」も「不十分な教え」となってしまうことであろう。
《『玄宗正旨』を読む(1)》
南極長生大帝が言われた。
「南の山に一片の雲がある。その雲は南海に盛んに法の雨を降らせる。慈悲の光は遥か彼方にまで達して果てを知らない。東の海でとぐろを巻いていた龍は立ち上がり、北の叡岳は虎の泣き声を吸収してしまう。丹を梯子とし、霞を住処とし、鸞に乗って東へ、西へと尋ね歩く。沈めば履物があるし、竃にはもとどりがある。修行者はこの意味をよく考えるべきである。多くのところではない、一点の霊台に赴けば好いのであるが、行くに至ってはいない。いま幸いにして縁があり、奥義を開く一艘の宝の筏を得たことを知るであろう。代々道祖の心をして、この道を広める端緒としてもらうために、特に数語を留めておこう。中に含まれる奥義は広大無辺であるが、それぞれ参考にすべきところがある。道祖の心とは、つまりは「笑」の一字に象徴されるものである」
孚佑帝君はこう言った。
「弟子、畏まって申し上げます。大帝におかせられましては、この法の座にご降臨いただき、広大無辺な法の意味、限り無く深い玄機をお説きくださいます。永遠ともいえる長い法統の中で、法の真伝を得ようとするのであれば、こうした伝授は不可欠でございます。
道の根源は変わるものではなく、その悟りもそこに帰するものであります。ここに全ての奥義を既にお示しいただきました。私は大帝を師として目を開いていただいたのでございます。この感激は真に言葉に尽くせるものではありません。また慈しみの光を遍く下されたことは、この法の座にまさに瑞祥となるものでがざいます。加えて御教えを「旨(要旨)」などとご謙遜されておられますが、全くそうしたものではございません。ここに恐れ多くも、恥じ知らずにも申しあげますのは、更なる師恩を頂き、連綿と続いて参りました道統を絶えさせることの無きよう、これに一段のお示しを加えていただきたく思うことでございます。
〈両儀老人、曰く〉
○ひじょうに偶意に満ちた言葉で始まっている。これらは悟りを得る階梯について述べているものである。
○一片の雲は混沌とした先天の気のことである。これが発生し、内的エネルギーを高める。また慈悲のこころがあれば、エネルギーは平衡状態を得て、龍と虎に例えられる先天、後天の気が合一する。こうした境地にあっては内的エネルギーである「丹」と、「霞」に象徴される呼吸が適切に保持されており、自在の境地を得てはいるが、実勢には羽化登天することもなく、歩くには履物が必要であるし、肉体は「髷の付いた竃」同然に常に食べていなければならない。このような心と体の真実を知ることこそが重要なのである。以上のようにまとめることができるであろう。
○「笑」字訣は、生きることを謳歌することである。多くの人はさまざまな囚われのより、本当の意味で生きることを楽しめてはいない。人生の滋味を見つけるのが、内丹術の奥義であるというのである。
○八卦拳でも笑字訣は重要である。心身をリラックスさせて、楽しみ、滋味を見い出すのが、その根幹にあるからである。
《読書の箴言》
「同じ事柄でも完璧な説明が不可能である以上、人によって理解のしかた、説明のしかたはさまざまである。だから本も多い。そうであるなら不十分な理解でも、本を多く読むことで真実に近付けるのではあるまいか」(墨子)
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